2026年2月19日、有楽町朝日ホールにて開催された「万作の会 狂言の世界」へ足を運び、自身初となる狂言鑑賞を体験いたしました。本公演は、野村万作氏、野村萬斎氏、野村裕基氏という親子三代が揃い踏みする構成でした。今回は、実際の演目から見えてきた伝統芸能の現在地と、現場で得た所感をまとめたいと思います。
まず前半の小舞「七つ子」や「景清 後」についてです。これらは室町時代の笑話などを題材にしているという事実がある一方で、歌や舞のペースは極めてゆっくりとしたものでした。題材そのものは面白いにもかかわらず、テンポが遅いがゆえに現代の観客にとっては喜劇としての面白さが半減してしまっているというのが率直な意見です。この演劇のスロー化は芸能が格式高い伝統になる上で避けて通れないものらしく、狂言以外にも能や歌舞伎、雅楽等でも同様の傾向が見られるそうです。ただ、狂言のような「喜劇」・「お笑い」はテンポよく進める方が真の伝統という気もします。
続く「清水座頭」では、国の重要無形文化財として個別指定を保持する者(いわゆる人間国宝)が座頭を演じました。この類まれなる技術の継承者である野村万作氏の所作は一つ一つに無駄がなく、極めて美しいものでした。一方で、物理的な事実として声は掠れ気味であり、もう少し張りがあった方が言葉を聞き取りやすかったと感じました。専門家や長年の愛好家のコンセンサスとしては、この枯れた発声やゆっくりとした間合いそのものを「至高の芸術」として全肯定する見方が主流です。しかし、初めて観劇する現代の観客の視点からすれば、純粋な娯楽としてのハードルが上がってしまっている側面は否めません。客席でも居眠りする姿が散見されました。
さらに、この「静寂の芸能」を鑑賞する上で、観客側のマナーや環境が観劇体験に直結するという事実も痛感いたしました。私の隣席には風邪気味で鼻息が荒く、咳をする観客がおり、マイクを使わない舞台上の肉声が非常に聞き取りにくくなる場面がありました。狂言は演者の発声を静寂の中で楽しむ芸能であるため、体調不良時の観劇は控えるなど、同行者を含めた周囲への最低限の配慮が強く求められると感じました。
また、座席の位置に関しても大きな気づきがありました。今回私は中央後部の席に陣取ったわけですが、ちょうど舞台中央に立つ演者と前列の観客の後頭部が一直線に重なり、視界が大きく遮られてしまったのです。チケットを取る際は、あえて中央から少し横にずらした席を選ぶことを推奨いたします。前列の頭と頭の隙間に演者が位置する形になれば、結果的に視界が劇的に良好になるはずです。加えて、観劇などに用いる低倍率の小型双眼鏡(オペラグラス)の持参もお勧めいたします。バードウォッチング用の高倍率なものは不要ですが、3~5倍程度のこの小型双眼鏡であれば、中盤以降の席からでも装束のきめ細やかな模様や演者の微細な表情の変化を楽しむことができるからです。
後半の狂言「二人大名」は、前半の重厚さとは打って変わり、喜劇として純粋に楽しめる内容でした。裕基氏と中村修一氏が大名を演じ、萬斎氏が狂言において主人の使い走りや通りすがりの者を指す役柄を演じました。この役柄を「太郎冠者」と呼びます。太郎冠者は狂言における典型的主人公であり、時には真面目、時にはお惚けキャラとして演じられます。落語では与太郎などというとボケた主人公が登場しますが、その元祖だと思っていただければ分かりやすいかと思います。萬斎氏がこの使い走りを演じる中で、特筆すべき事実は、掛け合いのスピード感を縮めたり、言葉の強弱を意図的に変えたりすることで、客席に自然な笑いを発生させていた点です。これは、厳格な伝統を守りつつも現代の喜劇に通じるテンポの良さを取り入れた、萬斎氏なりの新しい表現を生み出そうとする試みであると推測されます。
残念ながら前半の万作氏の演目が終わった段階で席を立つ観客も散見されました。しかし、結果論として言えば、この萬斎氏による観客の心を見事に掴む新進気鋭のアプローチは見届けて大正解でした。
「保存された伝統的な狂言」と、「現代版に最適化された狂言」。この両極端な表現手法を一度の舞台で比較できたことは、初めての狂言鑑賞として非常に幸運であり、自分にとって入りやすい有意義な体験となりました。
